Plurality 訳者最初の印象
訳し始めて、翻訳そのものはそんなにむずかしくないのですが、最初からある種のひっかかりを感じています。それは、本書の中身よりはむしろ、書かれ方についてのひっかかりです。最初のほうだから、というのもあるかもしれないのですが、普通に訳すと本書がとてもカクカクしたスローガンの連続みたいになってしまう、というのを書きました。そこんところです。
本書にはそういうのが一切ありません。命題が次々に提示され、それを裏付ける統計データや引用は出てきます。でも、その命題はきわめて抽象度が高い。しょっぱなから「民主主義」「テクノロジー」です。 さてぼくも含め、一般の人は「民主主義」なんていう代物に直接触れることはありません。何か具体的な意志決定プロセスがあり、それが機能不全を起こしている (自分の思い通りにいかない) というのがあって、そのプロセスの問題点として民主主義的な投票や多数決、というのが出てきます。そして民主主義はでかい話なので、それのどの部分を問題にしているのか? それがかなり重要です。
でも本書は「民主主義」がドーンと出てきます。それが「テクノロジー」と対立している、と言われます。多くの人は、ツイッターの議論でも見て、うーんそんなところもあるねえ、確かにトランプがねえ、キャンセルカルチャーがねえ、とかいろいろ思うでしょうが、でもそれは民主主義そのものの問題なの、細かい実装の話なの、いいところもあるけど悪いところもあるし、いきなりそれが対立しているとかいうのは、そんな言い切れるものなのか、というのは、ほとんどの人が心のどこかで感じることだと思います。
普通の本は、「おれが町内会で会費集めようとしたら手間取ってさあ」とかいう具体的な話から入るので、何を著者が問題にしているのかもうちょっとわかりやすいが、本書はそれがない。(逆にアメリカのノンフィクション本の多くは「ジョージはそこで深く悩んだのだという。そう語る彼はNINの着古したTシャツを着ていた」みたいなくだらない身辺雑記を入れるのが「具体性」だと思っているので、そういう話ではないが)
そういう体験がほとんどない。大きな概念のどの部分を扱いたいのか、読めばわかってくる部分もあるでしょうが、それもない。あと、箸休め的な部分が全然なく、ジョークもまるで出てきません。 なんとなく、二人がパワポの資料をやりとりして、それをそのまま文章にしました、という印象が強い。そしてその補強材料として、いろんな論文のアブストラクトを詰め込んだ感じ。
人が「民主主義の危機が〜」と言うときには、無意識のうちに何かある特定の問題意識、特定の課題を念頭に置いていることが多い。でも、それが本当にその「民主主義」の全体なのか、というと、ぼくは怪しいと思う。そして似たような問題意識を持った人はそれを読んで「そうだそうだ」「よくぞ言ってくれた」と述べるけれど、その問題意識の妥当性についてはまさにその共感のために流されてしまう。そしてその問題意識を共有しない人——たぶん本として説得したい人々——は、まさにその内輪の人々が内輪で喜んでいることに鼻白む思いをして、そもそもこの議論の場に入ってこられない。
じゃあどうすんのか、という話だと、勝手に個人的体験ぶちこんだり下手なジョークをかましたり、という話ではないだろうけれど、まずは語り口でパワポの箇条書きとスローガン連続と命題の連続みたいな部分を和らげること、そしてその後は……解説あたりで、本書の問題意識をもう少し具体レベルに落とす話をたくさんつけたほうがいいんじゃないか、というのが最初の2章やった印象。
そういうベトベトした人間くさいのいやだよー、ドライな命題の連続がいいんだよー、という人もいるだろうし、またハイパーテキスト的に好きなところに行ったり来たりする読み方では、そういう分量をかけて積み上げる書き方は向かないだろうとは思うので、むずかしいところ。ただ一般に物理的な書籍にするなら、ちょっと考えたいところではあります。
これが具体的にどう書かれたかについては、筆頭著者二人にいずれ聞いてみたいところ (ここに書いた問題意識も含め、ちょっと現在作文中)。ともあれ、これは最初の2章での印象なので、今後やるにつれて変わってくるかもしれません。
-----
訳者の訳していく過程での思考が書かれて残るのはとても面白いnishio.iconはるひ.iconhealthy-sato.icon